書界の報告

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バルザック『従妹ベット』 その2

 ほんじゃそんじゃ『従妹ベット』の何がすごいのか?

 主人公はリスベットだが本当にヤバいのはユロ男爵で、人間さすがにここまでヤバくはないだろう、というおもしろさがある。「まあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああきのっ」ぐらいに誇張して描かれている。何がそんなにヤバいのか? 好色。好色がヤバい。あまりにも好色すぎる。アドリーヌという美しく清らかな妻がありながら、他の女と遊ぶことがやめられない。リスベットはそこにつけこんでユロ家を崩壊に導くのだけれど、はっきりいってユロ男爵が自滅しているようにしか思えない。途中から、特に最後のほうはリスベットの復讐よりもユロの放蕩かげんにハラハラさせられてしまう。バルザックという作家の破天荒さ、そして小説というジャンルの破天荒さがよく反映されている。

 バルザックの小説の特徴として付言しておきたいのは「人物再登場」という手法が使われていること。例えば上遠野浩平(なんてもはや最近のヤングは知らないかもしれないけど)の作品などで、ある小説の登場人物が他の小説にも登場したりする。巷ではこの手法を「サーガ」と呼んだりして、阿部和重という作家などは「神町サーガ」といっていくつもの自分の小説が神町というひとつの世界観を共有しているということにしたりしている。この「〇〇サーガ」の元祖はウィリアム・フォークナーという作家の「ヨクナパトーファ・サーガ」というやつで、ヨクナパトーファ郡という架空の土地を舞台にしている。フォークナーはアメリカの作家でアメリカ文化が世界を席巻するとともにみんな「〇〇サーガ」を真似しだしたが、フォークナーは明かにこの手法をバルザックから学んでいる。

 バルザックはパリを舞台にしたり田舎を舞台にしたりしてフォークナーのようなひとつの土俗的な土地を設定しているわけではないが、様々な人物がクロスオーバーして様々な小説に再登場する。『ゴリオ爺さん』でまだ青年だったラスティニャックが『従妹ベット』ではやり手の貴族(「やり手の貴族」ってなんだ?)になってりたり、その友達で医学生だったビアンションは立派な医者になっていたり。バルザックの小説はたくさん読めば読むほど再登場する人物を発見するおもしろさも積み重なっていく。バルザックはそのように相互に連なる自身の作品世界を総称して「人間喜劇」と名付けた。この言葉はバルザックの小説作法そのものだといえる。

バルザック『従妹ベット』 その1

 バルザックはおもしろい。バルザックこそ小説の王といってもいい。バルザックを読めば小説というものが十九世紀にすでに極まっていたということがわかる。小説が好きな人はまずバルザックを読むべきで、バルザックが気に入らなかったらそれは小説が好きなのではないということかもしれない。

 そのおもしろさの要因はいろいろとあるけれども、私が思うのは「ものまね」というもの。ものまねタレントがおもしろいのは、ものまね対象の特徴や仕草を誇張しているところにある。小栗旬はあんなに顔を傾けないし「まーーーーきのっ」なんてそんなに伸ばさない。しかしそこには小栗旬本人よりも小栗旬性を備えた小栗旬がいる。バルザックのおもしろさというのは、あえて極端な人間を描くことで人間の真実に迫っているところにある。人間以上に人間らしい人々を描く。その結果、物語は激しさを極めてモラルというものが見出せなくなる。物語が終る頃には作品世界は焦土と化している。読者が作品から得るものが残らない。ところがそんな奔放さにこそ小説というジャンルの本質があるようにも思える。

 長編小説『従妹ベット』は『ゴリオ爺さん』や『谷間の百合』ほど有名ではないけれど、上述のような激烈なおもしろさが詰っている。登場人物たちはひとつの性質や方向性を作者から与えられていて、それを死ぬまで全うしていく。

 主人公のリスベットという老嬢は嫉妬に狂っている。ユロ男爵という人の家に仕えていて、ユロ男爵の妻アドリーヌは従姉なのだが、リスベットはこのアドリーヌのことをとにかく妬んでいる。リスベットは醜い。アドリーヌは美人でユロ男爵と結婚して玉の輿に乗ったが、リスベットは老いてなお独身だ。表面上は立派に女中を務めてきたのだが、心の底ではずっと憎んでいる。リスベットが裏で工作してユロ家を崩壊させ、そこへ献身的につくすふりをし、アドリーヌに感謝させ、自尊心を満足させたい。

 このような老嬢の歪んだ復讐劇がメインのストーリーで、そのように紹介されることも多いのだが、実はおもしろさはそれだけにとどまらない。ただ今回は、バルザックという作家がいともたやすく、なんの気負いもなくこのような物語を語るのだということを知っていただきたい。こんな悲しい話がありますよ、こんなけしからん話がありますよ、というのでなく、まあ世の中こんなもんだよねといった調子で激烈な物語が進行していく。バルザックという作家の特異な価値観が、小説という文学史上特異なジャンルと見事にマッチしていたのだ。

ホメロス『オデュッセイア』 その2

オデュッセイア』は神話を基にした奇想天外な冒険譚の数々が魅力的だが、その根底には古代ギリシア人の特徴的な人生観がある。これは『イリアス』にはあまり見られない。『イリアス』はトロイア戦争における傑物たちの活躍を謳っている。彼らは感情を爆発させ、戦争にあって生き生きしている。対して『オデュッセイア』のオデュッセウスは耐える。耐えることで道を切り開いていく。『イリアス』より後の『オデュッセイア』では倫理というものが芽生えている。

 オデュッセウスは登場の場面でカリュプソという仙女に誘惑されている。彼女と夫婦になれば不死になれる。ギリシア人は神々を不死なる存在、人間を死すべき存在と定義して区別していた。彼らには不死への羨望がある。しかしオデュッセウスはその誘いを断って家族のもとへ帰ろうとする。不死よりも自分の人生を選んだ点にオデュッセウスの勇敢さがある。オデュッセウスの旅の苦しみはいつ死ぬともしれない人間という存在の悲しみをも象徴している。

 旅の途中でオデュッセウスは冥府をも訪れる。そこには『イリアス』の主人公であり、溌溂とした英雄であったアキレウスもいた。アキレウスは明らかに生きていたころに比べてテンションが低い。死という現実を突きつけ、先行する『イリアス』の批評にもなっている場面である。

 またホメロスあるいは当時の叙事詩の特徴であるが、人間の行動を神が操っているという場面が多い。これは当時の人間には明確な意識というものがなく、明らかな自分の心の声でない潜在的な心の声を自分のものと認識できなかったという説がある(ジュリアン・ジェインズ)。人間はこの潜在的な声を神の声だと錯覚する。ホメロスの時代にはこれがより強かったという。

 また、古代信仰の例に漏れず天候や天変地異も神の仕業とされた。オデュッセウスの旅もよくこのような自然の神々に邪魔される。人間は行動も環境も神々によって制限されている。ごく狭い運命をしか生きることが許されない。自分の生を自分の意志で生きることができないという、ここにも人間の悲しさがある。

 ホメロスは英雄の勇敢な冒険を歌いつつ、同時に人間の小ささも歌っている。この矛盾こそが人間なのだともいえる。『オデュッセイア』が色褪せないのはこれが極めて近代的な人間像を提示しているからであろう。

ホメロス『オデュッセイア』 その1

 ホメロスギリシア語で Όμηρος と書く。正確に発音すると「ホメーロス」。ただ日本語で「ホメーロス」と書くと「メー」にアクセントを置きたくなってしまうが、実際は「ホ」にある。だから自然な日本語風に「ホメロス(「ホ」にアクセント)」というほうが原語に近いかもしれない。

 ホメロス古代ギリシアの詩人である。古代といってもプラトンなどの哲学者や民主制で有名なアテネが栄えるさらに数世紀前の人らしい(紀元前8世紀とか)。大昔すぎて正確なことはいえないが、プラトンの時代にはすでにかつての大詩人として知られていた。その彼のふたつの叙事詩イリアス』と『オデュッセイア』は世界文学史上不朽の名作として今日も輝きを失っていない。今回はとりあえず『オデュッセイア』を紹介する。『イリアス』もおもしろいが、『オデュッセイア』のほうが文学的な味わいが深いと思う。

 昔、私の父が「オデッセイ」という自動車に乗っていた。父は私にたびたび「『2001年宇宙の旅』の『旅』は英語で『オデッセイ』っていうでね」といって自分のクルマ選びのセンスを誇っていた。『2001年宇宙の旅』はスタンリー・キューブリック監督の有名な映画であるが、その原題は「A Space Odyssay」、「Odyssay」という言葉が含まれている。これは父のいったとおり「旅」や「冒険」を意味する英語の単語だが、もともとは「オデュッセイア」の英語形である。

オデュッセイア』はギリシアの英雄オデュッセウスの冒険の物語である。オデュッセウスは、トロイア戦争において有名な木馬の作戦を考案したほど知略に長けた男。戦争終結後に彼が妻と息子の待つ家に帰るまでの苦難の旅が描かれる。

 核心的なことは次回にまわして、まずは好きなエピソードをご紹介。

 オデュッセウスは旅に疲れて森で眠っている。そこへ女たちがやってきて歌って踊り始めた。オデュッセウスは目を覚まし、そちらへ近づいていった。

 …勇士オデュッセウスは、灌木の茂みの下から這い出ていったが、その際、肌を蔽って男の陰部を隠すため、逞しい手で生い茂る木立から、葉のついた若枝を折り取った。這い出てゆくその姿は、さながら山育ちの獅子のよう、…オデュッセウスは切羽つまって今はやむなく、裸身をも顧みずに髪美わしい娘たちの群に入ろうとした。(松平千秋訳)

 このような姿で近づいたものだから女たちは逃げてしまう。ただひとり逃げなかったのはその国の王女のナウシカアだった。ナウシカアはオデュッセウスがただのホームレスではないことを見抜き、案内を申し出る。逃げようとした女(女中)たちを𠮟責してこういう。

 お前たちは立ち止まりなさい。男の人の姿を見たからといって、何処へ逃げてゆくのです…

 強気である。こうしてボロボロのオデュッセウスに食事を与えて命を救う。ナウシカアには婿がいないのだが、体を洗ってきれいに身だしなみを整えたオデュッセウスにこういう。

 下賤な心根の男がわたしらに出会ったら、こんな風にいうかも知れません。「あそこにナウシカアの後から随いてくる、すらりとした美男の異国人は何者であろう。ナウシカアは何処であの男を見付けたのかな。いずれは彼女の婿になるのであろうが。…」こんな風にいうでしょうし、それが私にとって不面目なことになるかも知れません。

 妄想癖があるのだろうか。はたしてナウシカアの父・アルキノオス王もオデュッセウスのことが気に入る。

 …そなたが、この地に留まってわしの娘を妻にし、わしの婿と呼ばれるようになったらどんなによかろう。

 しかしオデュッセウスには帰るべき国と家族がある。婿にはなれない。別れの時が来る。ナウシカアがオデュッセウスにかける最後の言葉は、

 ではお客様、御機嫌よう、国へお帰りになっても、いつかまたわたくしのことを思い出してください、誰よりも先にあなたの命をお助けした御縁があるのですから。

 もうお分りの方もいるかもしれないが、宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』の主人公の名前はこのナウシカアからきている。キャラクター造形にも影響が感じられる。『オデュッセイア』という長い物語の中でこのナウシカアのエピソードはほんのわずかなのだが、確かな印象を我々に与え、現代日本のアニメ作品にもその顔をのぞかせているのである。